難攻不落の城と尼子氏~月山富田城~

こんにちは!

はとです!

戦国時代の中国地方には、周防(現:山口県)の大内氏と出雲(現:島根県)の尼子氏という大きな勢力がいました。

出雲の尼子氏の本拠地が月山富田城です。

月山富田城

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月山富田城

月山富田城は山城で、日本100名城に選ばれています。

月山富田城平安時代に作られ、室町時代に当時京極家の部下だった尼子清定は、応仁の乱の混乱などで乱れていた山陰地方の鎮圧に成功し、京極家から出雲国を任されます。

尼子家は、尼子清定の息子である尼子経久の時代に繁栄します。
尼子経久月山富田城を居城としてから、毛利氏に攻められて1566年に尼子氏が滅亡するまで、一度も落城しなかった難攻不落の城です。
1566年に尼子氏が滅亡したときも、毛利氏は兵糧攻めでしか攻略できませんでした。

関ヶ原の戦いまで毛利氏が使っていましたが、関ヶ原の戦いで西軍が破れて毛利氏の所領が周防・長門の2か国に減らされ、毛利氏が出雲から出た際、関ヶ原の戦いで功績のあった堀尾忠氏が月山富田城に入場しました。

しかしながら、月山富田城は中世の山城であり、近代的な城下町をつくるのは難しい上、中世西日本海最大の要衝として栄えていた美保関がある現在の松江市からも離れた場所にあったため、堀尾忠氏は現在の松江市松江城(別名:千鳥城)を築きました。
この松江城は、現存する12天守のうちの1つであり、天守からは宍道湖を一望できるというすばらしい景色のお城です。こちらもぜひ行ってみてください。

そして、松江藩の本拠が松江城に移ったことにより、月山富田城は廃城になりました。

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松江城

月山富田城登ってみた

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月山富田城山頂からの景色

月山富田城は山城なので、本丸まで行こうと思うと軽い登山になります。
しかし、山頂からの眺めは最高です!
春には桜も満開になるので、ぜひ見に行ってみてください!

尼子経久月山富田城奪還戦

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月山富田城

月山富田城は尼子氏の居城で、尼子経久はこの月山富田城を中心として発展しました。
しかし、1度だけ月山富田城を追放されたことがあります。

尼子経久がまだ若かった頃、寺社本所領を押領したことや、禁裏修理のための段銭を進納しなかったこと、さまざまな公役を緩怠したこと、室町幕府の言うことを聞かないなどやりたい放題したために、室町幕府から経久討伐の幕令が下ります。

そして、出雲国人領主たちによって経久討伐軍が結成されて、ついに月山富田城を追い出されてしまいました。

尼子経久がなんでこんなにもやりたい放題していたのかというと、まず、尼子経久の父清定は美保関の関税を支払わない常習犯でした。また、独立心が強く、父・清定が苦労して平定した出雲なのに、なにもしていない幕府や守護が口出ししてくるのはおかしいと考えていたようです。

そして、尼子経久月山富田城奪還をひそかに画策します。

尼子経久は鉢屋賀麻党の主と接触します。
鉢屋とは古くから芸能人として芸を行うとともに、鳥追いを行うほか、兵士としての役目もあるし、武器の生産にも携わっていた人たちでした。
簡単に城の中に入れて、武器を持っていても全く怪しまれない人たちだったのです。

奪還決行当日。

鉢屋賀麻党の一団が芸人のかっこうをして、大騒ぎしながら富田城に入城しました。
尼子経久は裏手から侵入し、月山富田城内の所々に火をつけて、火事だと騒ぎました。
富田城内が混乱すると、鉢屋賀麻党が武装してさらに大混乱に陥りました。

当時月山富田城の城主であった塩治治掃部介はしばらく戦いましたが、ついに自刃しました。

このことで、尼子経久は奇襲に成功して、月山富田城の奪回に成功しました。

 

毛利氏と尼子氏の戦い

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尼子経久が亡くなり、その孫である尼子晴久が急死して、尼子義久に時代が変わっていました。
尼子晴久のときに、尼子氏の精鋭部隊である尼子新宮党が粛清されて滅亡し、周防の大内氏も家臣の陶晴賢によって滅亡していました。

当時山陽の覇者として毛利元就がおり、次なる目標を尼子討伐に決めていました。

尼子義久は、毛利元就と講和を結びたかったが、石見の領主たちが毛利と戦い、毛利氏から講和を断られてしまいました。

毛利氏は出雲に到着すると、月山富田城を包囲して、周りの支城を次々と落としていきました。
元就は中海と宍道湖を制して、随一の支城である白鹿山城を落城させました。
途中、大友家が豊前(現福岡県)に攻めてきたので、息子の毛利隆元を援軍として豊前方面に向かわせます。
しかし、すぐに講和が成立したので呼び戻します。
隆元が出雲に戻る途中に、尼子の刺客によって暗殺されます。
このことで毛利元就の怒りはピークになります。

白鹿山城が落城したため、月山富田城の補給路が弓ヶ浜から上陸して陸路を行くしかなくなってしまいます。
しかし、毛利水軍に負けて弓ヶ浜も毛利の支配下に置かれてしまって、完全に補給路を断たれてしまいます。

そして、毛利軍全軍が月山富田城に集結します。
毛利軍は3方面から攻めたものの、落とすことができなかったので攻めるのをやめて兵糧攻めにします。

尼子義久は万策尽きて、自分と重臣の命と引き換えに城兵の命を助けてほしいと元就に伝えます。

元就は義久の自刃をやめさせ、降伏を認めます。

尼子氏のその後

尼子義久はその後安芸国(現広島県)で余生を過ごします。
尼子氏の多くの家臣たちはリストラされてしまいます。
このリストラされた家臣たちが、尼子再興軍として毛利氏と戦います。

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尼子再興軍のリーダー、山中鹿之助

スタンプ

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日本100名城 月山富田城のスタンプ

このスタンプは、月山富田城の麓にある安来市立歴史資料館にあります。

月山富田城山頂にもスタンプがありましたが、押せなかったです。