山口県とキリスト教~昔の日本はホモが普通?!ザビエルも困惑した武士の習慣~
こんにちは!
はとです!
みなさんは、フランシスコ・ザビエルという人を知っていますか?
歴史の教科書で必ず出てくるザビエル。
日本でキリスト教を布教したことで有名ですよね!
しかし、ザビエルが日本でどこでどのように布教活動をしたのかは、あまり知られていません。
ザビエルが日本に来るまで
フランシスコ・ザビエルは1506年、ナバラ王国(現・スペイン)で生まれました。
彼は貴族の子でしたが、幼いときに国が滅亡してしまいます。
19歳のときに大学に入学し、哲学を学びます。
そこで、仲間たちと一緒に「イエズス会」を創ります。
そして、キリスト教を世界に広めるため、まずインドに向かいます。
しかし、インド各地で宣教して、多くの人をキリスト教に導きます。
そして、マラッカ(現マレーシア)に赴いて布教活動を行っていると、ヤジロウという日本人に出会います。
ザビエル、日本へ
ザビエルはヤジロウの力を借りて、明を経由して日本に入りました。
最初に訪れたのは、ヤジロウの故郷である薩摩(現鹿児島県)に行きました。
そこで薩摩国守護大名の島津貴久に謁見して、宣教の許可を得て布教活動を開始します。
ザビエルは布教中に薩摩の僧侶たちと対立して、薩摩を出て京を目指します。
その後、肥前国(現長崎県)で布教活動を行い、山口へと向かいます。
ザビエル、山口へ
ザビエルは山口で布教活動を開始しました。
守護大名大内義隆にも謁見しますが、同性愛を禁止とする当時のキリスト教の教えが大内義隆には受け入れがたいものでした。
当時の武士は同性愛が普通で、大内義隆の父、義興も同性愛でしたし、義隆自身も家臣と関係を持っていました。
それくらい、武士の中で同性愛は普通だったのです。
ザビエルは山口での布教もあきらめて京へと向かいます。
しかし、京は応仁の乱で荒廃しており、また、将軍や天皇に謁見しようにも献上品がなかったため叶いませんでした。
そこでザビエルは、一旦平戸まで戻って献上品を持って山口に戻ります。
山口に戻ると、大内義隆に眼鏡などの珍しいものを献上します。*1
これに喜んだ大内義隆は、ザビエルに宣教の許可を出して、お寺を住居兼教会として与えました。
山口での布教活動
ザビエルは修道士ジョアン・フェルナンデスと毎日2回、山口の大殿小路という通りに出かけてそこにあった井戸端で、集まってくる人に向かって布教しました。
そこには武士や農民などあらゆる階層の人々がたくさん集まってきました。
教会に帰ると、ザビエルが言ったことに疑問を抱いた人が質問したり、討論をしようと考える人がいたり、さらには野次馬も集まってたくさんの人が教会に集まりました。
しかし、キリスト教の信者になる人は少なかったので、ザビエルは心配になりました。
そんなとき、いつものように布教活動をしていると、ある男がザビエルたちを罵倒しはじめました。そしてその男は修道士に痰を吐きかけて去っていきました。
しかし、ザビエルたちはなにごともなかったかのように布教活動を再開しました。
人々は、ザビエルたちが挑発や罵倒に少しも気に留めずに、自分の体面などまったく気にかけないことに驚きました。
そして、ザビエルたちの教えを信じる人が出てきました。
その後ザビエルは豊後国府内(大分県大分市)へと向かいました。
ザビエル記念聖堂
ザビエル記念聖堂は、ザビエルが山口を訪れてから400年を記念して、昭和27年に建てられました。
真っ白できれいな建物です。
2021年7月現在では、新型コロナウイルス感染拡大防止のため休館しているため、中にははいれません。
最新情報は以下のリンクから!
聖堂の中には入れなかったので、付近を探索しました。
すると、大聖年の鐘というものがありました。
この鐘は世界平和を願うためのもので、けっこう大きな音がして驚きます。
行ったら鳴らしてみてください!
まとめ
今回は山口とキリスト教について記事にしました!
ザビエルは日本に来てからかなり苦労したんですね。
また、当時の武士はホモが普通だったとは・・・
今では考えられませんね!
ぜひ、ザビエル記念聖堂に行って、鐘を鳴らしてみてください!
*1:ザビエルは初めて日本に眼鏡を持ち込んだと言われています。