昼ドラよりギトギトした平安時代~菅原道真と天神様~
東風吹かば匂ひ起こせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ
こんにちは!
はとです!
みなさんは受験のときに、太宰府天満宮や北野天満宮にお参りに行った経験はありますでしょうか?
太宰府天満宮や北野天満宮は、天神様という学問の神様を祀っています。
天神様は実際にいた人で、「菅原道真」という人です。
これは有名なので、知っている方も多いのではないでしょうか?
天神様:菅原道真公
ドロドロの平安京:昌泰の変
菅原道真は平安時代の人物で、ものすごく頭の良い人でした。
その才能を京の都で存分に活かして、どんどん出世していきました。
しかし、この出世を良く思わない人たちがいました。
藤原家の方々です。
当時は藤原道長が「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(小右記*1)と詠うほど藤原氏は繁栄していました。
時の天皇は、宇多天皇でした。
宇多天皇は藤原家の有力者である藤原基経とトラブルを起こした経緯があります。*2
そんな宇多天皇は、菅原道真を大事にしてどんどん出世させます。
菅原道真が右大臣*3という官職に就いたとき、左大臣*4には藤原時平という人が就任していいました。
藤原時平は藤原基経の息子です。
時平は父が起こした事件のことや宇多上皇(醍醐天皇に譲位した)*5が菅原道真を大事にしていることで、危機感を覚えます。
そこで時平は、菅原道真が自分の娘婿を天皇にしようと企てているというデマを流して、菅原道真を失脚させようとします。
これに宇多上皇や菅原道真のことをよく思わない公家と、宇多上皇や菅原道真に口出しをされて、自分の思うように政治ができなくて不満を感じていた醍醐天皇が手を組んで菅原道真を大宰府に左遷しました。*6
もちろん、菅原道真が自分の娘婿を天皇に企てているというのはデマなので、道真は納得いかないまま遠く大宰府に向かいます。
菅原道真の死後の大事件
菅原道真は大宰府に左遷された2年後に亡くなります。
しかし、菅原道真が亡くなったあと、平安京では原因不明の天変地異が続きます。
菅原道真を左遷した藤原時平が39歳という若さで病死し、道真の左遷に関わった1人で、道真が左遷されたあと、右大臣に就任していた源光が鷹狩の際に泥の中に落ちて溺死、遺体も上がってきませんでした。
人々がこれらの事件を菅原道真が怨霊がやったものだと噂しはじめます。
そして大事件が起こります。
醍醐天皇がいた清涼殿で、会議中に落雷。
清涼殿は大火災を起こして、周辺にいた朝廷の重臣が重軽傷を負い、死者も出ました。
さらに、醍醐天皇もこの数か月後に亡くなってしまいます。
このように、菅原道真を左遷に関与した人のことごとくが亡くなってしまったことで、この一連の事件はすべて菅原道真が怨霊になって、災いを起こしている噂を疑う人はいなくなりました。
そこで朝廷は、菅原道真公の名誉を回復し、北野天満宮を造りました。
菅原道真と防府
京都を出た菅原道真は、牛車に引かれながら山陽道を西へと向かいます。
その道中の宿泊地の1つが防府です。
菅原道真はこの防府の地から船に乗って九州に向かうことになっていました。
そこで、菅原道真は「この防府は京の都から陸続きの場所なので、私が無実であるという知らせが届くまでここに住みたい」と漏らします。
この願いは届かずに、菅原道真は九州へと旅立ちます。
その後、時は流れて菅原道真は無実であるという知らせは来ず、ついに亡くなってしまいます。
菅原道真が亡くなったその日、防府では神光が現れ、防府の人たちは菅原道真の魂がここに住もうとやってきたのだと考えて、「松崎の社」という防府天満宮の前身となる社を作りました。
防府天満宮
防府天満宮は、日本で最初にできた天満宮です。
日本三大天神に1つに数えられる、山口の中でも有名な観光地として知られています。
受験シーズンになると多くの受験生が訪れます。
今はコロナウイルス終息を願った「アマビエ」の像が置いてあります。
菅原道真公が愛した梅も植えてあります。
防府天満宮は防府駅から徒歩30分くらいの場所にあります。
車で行く場合は、駐車場から少し離れているので注意が必要です。
コラム:菅原道真と梅
菅原道真公は幼いころから梅の花が大好きでした。
大宰府に左遷されて、大好きな梅の花と別れなければならないときに詠んだ歌が、
東風吹かば匂ひ起こせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ
意味:春が来たらまた梅の花を咲かせておくれ 主人である私がいなくても、春を忘れてはいけないよ
京都にあった梅は、大宰府に向けて飛んでいったと言われています。
一緒に飛んで行った松は摂津国(兵庫県)で力尽きてしまいましたが、梅はしっかりと大宰府に届いたそうです。
これは、菅原道真が挿し木をしたと言われています。