私の熊本地震 4月16日
昨日の続き
2016年4月16日1時25分、本震発生
夜ぐっすりと眠りについていた私ですが、突然突き上げるような大きな揺れで起きました。
揺れは大きく、立ち上がることもできずにじっと揺れがおさまるのを待っていました。
揺れがおさまると、私はアパートが潰れなかったために大したことはないと思って寝ようとしました。
しかしそこへ隣の部屋の同級生が私の部屋のドアを慌てた様子で叩きます。
私は起きて玄関に向かおうとしたのですが、蛍光灯がどこにもなく、おかしいなと思いながら暗闇の中玄関に向かいました。
玄関の扉を開けると、衝撃的な光景が広がっていました。
なんと、周りの家がすべて潰れているのです。
そこで私は、これは大変なことが起こったということを認識して、避難する準備をはじめました。
同級生が1人倒れた冷蔵庫がドアを塞いでしまい出れなくなってしまったので、みんなで助けました。
アパートの住人全員で近くの小学校へ避難することになりました。
しかし、その道中も電柱が倒れ、電線がちぎれ、家が倒壊している状況でした。
小学校の校庭につくと、すでに多くの学生が集まっていました。
あたりはプロパンガスのにおいが充満し、中には泣き出す学生もいて、現場はカオスな状況でした。
私たちは気分が暗くならないようにおしゃべりをして時間をすごしました。
2時ごろだったでしょうか、大きな揺れとともに「ごごごー!」という大きな音がしました。
このころには、緊急地震速報が地震に追いついていませんでした。
明け方になると、上空に無数のヘリコプターが見えるようになります。あの中の何機が報道なのだろう?そんな疑問を持ちながら空を見上げていました。後にほぼすべてが報道のヘリコプターだということがわかります。
日が登ると、ヘリコプターが着陸するため場所を移動することになります。
ここで事件が起こります。
1年生が先輩達とはぐれました。
入学したばかりで誰も先輩の顔も名前もわかりません。
ここからは1年生だけで生きていくことになります。
朝になると、被害状況がわかるようになります。
まず驚いたのは、土砂崩れが起きて山肌が見えていたことです。みんなが気づいて「わーっ」と悲鳴にも似た声が上がりました。
阿蘇大橋も土砂崩れと一緒に落ちてしまい、跡形もないです。
明るくなると、潰れたアパートや家から生存者がいることがわかり始めます。
各地で救助活動が行われました。
私たちのアパートは比較的被害が少なかったので、必要なものや大切なものを回収しました。
自衛隊や消防、海上保安庁など、多くの救助チームが南阿蘇村入りしました。
私たちは大学の体育館に避難してくれという指示を受け、大学の体育館を目指しました。その道中、自動販売機を破壊する人たちに会いました。
災害が起こると治安が悪くなります。私たちのグループには女の子が5人います。なんとか守らないといけません。
体育館につくとようかんや飲み物がもらえました。この状況でも、ようかんは嫌いだなんてのんきなことを言っている人もいるから平和なものです。
体育館に着くと活発に動きまわる人とじっと座って動かない人に分かれます。私はじっとして動かない人が心配でした。
グループのメンバーに声をかけつつ、全員の行動を把握しながら情報を集めました。
災害のときはデマが流れやすいので、冷静な判断が必要です。みんなが不安になるようなことは極力言わないようにして、大事なことや希望が出るようなことは伝えます。
これはなかなか大変です。
当時流れた噂では、地震で緩んだ地盤が雨で崩壊して体育館ごと崩れるというものでした。私はこの時ほかの地区に移動になるという情報を得ていたので、そこまで気にしていませんでしたが、最悪の場合というのはどうしても考えてしまいます。
そして夕方には移動になりました。壊れた橋を渡りながらしばらく歩いていくと、自衛隊の車で高森町まで行きました。
私たちは高森町がどこにあるのかわからないし、窓もない車なので不安でいっぱいでした。
しばらくすると、避難場所である高森中学校へと到着しました。
そこでおにぎりを食べて、ウェットシートで身体を拭いてすぐに眠りにつきました。
未だ余震の絶えない状況ですが、気づけば朝1時半から全く寝ていません。私は疲れてすぐ眠りにつきました。