戦国時代の始まり~応仁の乱~

室町時代

京の都を焼け野原にした戦争がありました。
この戦争は、全国に火種をうみ、
戦国時代の幕開けとなりました。(諸説あり)

 

嘉吉の変

くじ引き将軍として有名な室町幕府6代将軍足利義教は、
将軍の権力の強化を狙って専制的な政治を行いました。

永享10年(1438年)、義教は幕府に反抗的だった鎌倉公方
足利持氏を打ち滅ぼしました。(永享の乱

その後も義教は守護大名を弾圧しました。

嘉吉元年(1441年)、有力大名の1人赤松満祐が義教を暗殺してしまいます。
嘉吉の変

赤松満祐はその後に幕府によって討伐されましたが、
この事件は、将軍の権威を大きく揺るがすものでした。

嘉吉の変の後、将軍権力の弱体化にともなって有力守護大名や将軍家にあいついで内紛が起こりました。

室町幕府は、7代将軍義勝が8歳で亡くなってしまい、
8代将軍に足利義政が就任します。

 

激化する家督争い

享徳3年、畠山氏の家督争いで、当主の息子義就とそのいとこ政長が争いをはじめます。
この争いを収めようと、将軍家が調停に乗り出します。

当時、大名の跡継ぎが決まらない場合は、将軍が裁定することになっていました。
足利義政は、畠山氏の当主を前の当主の息子である義就にします

この畠山義就の性格に問題がありました。
粗暴でわがままな性格で、将軍の裁定で当主になってことをいいことに、
好き放題し、ついには隣の領地に攻めこむこともありました。

このことに、将軍義政は怒りを抱くようになりました。

長禄4年、将軍義政は畠山氏の当主を義就からいとこの政長に渡しました

これに義就が怒りました。
義就は河内国(現:大阪府)の山城に立てこもり、抗議しました。
将軍義政は畠山義就討伐を命じますが、畠山義就の抵抗が激しく、
2年たっても討伐できませんでした。

そんなとき、義政の妻、日野富子畠山義就を許してほしいとお願いされました。
そして、義政は畠山義就を許してしまいます

このことが大事件をうみます。

文正2年(1467年)1月18日
京都で罪を許されて帰ってきた畠山義就といとこの政長の間で戦争が始まります
足利義政は、この畠山氏の争いにほかの者は加担してはいけないと命じます。
しかし、山名家の当主である山名宗全がこれを破って、畠山義就に加担します。
そうして畠山義就山名宗全の連合軍は、またたくまに政長の軍を破り、
戦争が終わりました。

足利義政は、命令に背いた山名宗全を無罪放免にしてしまいます。
このことにより、さらに将軍の権威が失墜します。

応仁の乱開戦

応仁元年(1467年)、畠山政長の軍が突然山名宗全を攻撃し、
義政の住む花の御所を包囲します。

畠山政長の陰には、細川勝元がいました。
細川勝元は、近畿と四国に勢力をもつ大名です。
細川勝元は、義政に自分たちを山名家討伐の正規軍とし、討伐の許可を求めます。
側近たちはこれに反対しました。幕府が戦争の当事者になるのを避けたかったためです。

しかし、義政は細川勝元の要求をのみます。

そして、山名家(西軍)と細川家(東軍)の両軍の戦いが京都ではじまります。
そしてこの戦いに、周辺の大名が加勢します。

次第に東軍が有利になります。
そこで義政は西軍の山名宗全に降伏勧告を送りますが、山名宗全に無視されてしまいます。

そして開戦から2か月、大阪湾に突如500艘もの船が現れます。

中国地方の西側から北九州に勢力をもつ、大内政弘が2万の軍を引き連れて、
山口からやってきました。

この大内軍が西軍に加担したことで、互角の戦いになります。

京都では、20を超える大名が入り乱れて戦い、
目の前の敵が誰なのかわからないまま戦っていました。

この戦いで、京都は焼け野原になってしまいます。
京都にいた公家をはじめとした武士ではない人々は、
京都を出て地方に出ていきました。

泥沼化する戦争

戦いが1年半が経ったとき、東軍にいた足利義政の弟が西軍に寝返ります。
原因は、将軍家の家督争いでした。
足利義政には男の子の子どもがなかなかできませんでした。
そこで足利義政は弟の足利義視を義政の後の将軍に任命しました。
そして、後見人に細川勝元を選びました。
しかし、翌年妻の日野富子が男の子を産みます。
日野富子はこの男の子を将軍にしようと画策します。
そして、山名宗全を頼っていました。

細川勝元は、山名宗全日野富子がつながっていて、
山名宗全の力を借りて日野富子の息子を将軍にしようとしていることがわかっていました。
なので、足利義政の弟を東軍から追放し、西軍に寝返ればそのつながりに亀裂をつくることができると考えたからです。

その後、山名宗全細川勝元が相次いで死亡しました。

しかし、その後も戦いは収まらず、
大将の息子が寝返るなど、大混乱が起きていました。

この戦争は11年続きました。
その間、大名は地方から京都に来ていたので、領国はがら空きです。
そこで下剋上がおこったり、隣国が攻め込んできたりして、
全国で戦争が起きました。

また、兵士も減っていきました。
兵士が減った大名は、家を失った京都の市民をお金で雇い、
兵士にしました。(足軽

突然の終戦

そして、泥沼化した応仁の乱はとてもあっけない終わりを迎えました。
兵士が疲れ、領国も荒れ果ててしまい、
困った西軍最大の大名である大内政弘は、
日野富子献金をして山口に帰ります。

それを見たほかの西軍の大名も一斉に引き上げて、
わずか1日で西軍はいなくなり、応仁の乱は終わりました。

戦いの影響

応仁の乱は、全国の大名が参加しました。
そして、兵士もお金も使い果たしました。
それによって、応仁の乱に参加しなかった大名や地方に残った者などに
チャンスがうまれました。
そして、下剋上がおこったり、隣国と戦争になったりして、
長く戦争の時代に突入しました。

また、京都という室町時代の政治と経済の中心が戦争になりました。
そこに住んでいた公家や貴族は地方に移住する人も多く出てきました。
そういった公家や貴族を受け入れた地方が発展するきっかけになりました。

さらに、戦争のやり方も変わりました。
応仁の乱では、足軽が活躍しました。
戦国時代には、この足軽を訓練したりして発展していきました。

将軍足利義政は、隠居して有名な「銀閣寺」を造ります。

義政は、銀閣寺に移り住み、東山文化を作りました。

 

(※諸説あります)